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【渡辺高哉はこんな人物】


→私の人生遍歴

誕生から小学校まで (私の性格と由来が生み出した個性的才能)

「性格と由来」認識 (人生史分析) の効果
 自分の人生史を斬新な着眼で分析する ⇒ 性格と由来、更には性格が衝動強迫の源であることを認識する ⇒ マイナスの衝動強迫 (チャンスを逸したり、ピンチを招く源) を抑制し、プラスの衝動強迫 (個性的才能の源) を活用することの必要性を認識する。(関連記事 ⇒ 『紙一重の人生』)

 チャンスを逸したり、ピンチを招く源であるマイナスの衝動強迫に襲われる「一瞬」に気づくようにするのが自分の性格と由来の認識です。この認識をマイナスの衝動強迫の抑制に結びつけるためには、個性的才能を適切に伸ばすことを可能にするビジョンを追っている人生になっていることが必要です。なぜなら、このビジョンは「大事の前の小事」となることを可能にしてくれるからです。

実例が物語る性格無知の悲劇集

 私は1938年8月に日本の植民地であった台湾の高雄市で生まれました。二歳過ぎまでは母親べったり。それ以降から四歳過ぎまで未婚の若い現地人女中に預けられました。朝食終了後頃から夕食前頃までの長時間に亘ってです。この背景には、五歳上に姉、三歳上に兄がいる上に、弟が生まれたという事情があったのです。

 連日長時間に亘って母親から強引に引き離される。母親の手元に戻っても乳飲み子の弟がいるためにケアーが殆ど得られない。こういう経験は劣等感に、劣等感払拭のための心の潜水夫に、心の潜水夫はアイデンティティ重視型人間に結びついていきました。

 上記の女中は優し過ぎるくらいの人物でしたので、何から何まで私の言いなりでした。その結果、私はやりたいと思ったことは貫徹しないと気がすまない性格になり、内発的動機に基づく自己決定力抜群の人間の素地ががっちりと築かれたのです。

 このような生い立ちは遺伝子と胎児環境と結びつき、「やろうと思ったことは、どんなに時間がかかっても、どんなに邪魔されても、必ずやり遂げてしまう。本物の我侭人間だ」と私と密接な関係を持った人間から異口同音に言われることに結びつきました。そして、この生き様は更に青天井の発想力の養成と粘り強さに結びつき、数々の大仕事成就を可能にしてくれました。

 家の周りは水牛が寝そべっている水田。そこを私は沢山のアヒルを引き連れて散歩。こういう生活は私の感受性を豊かにしてくれたようです。

 ところが、運命は一変。台湾から日本本土への引越しの途中、私と家族が乗っていた船が「明日は門司港到着です。この船は護送船に囲まれているので安全です。ですから、お腹に巻いている金品を外して、ゆっくりとお休みください」という、前の晩の船長の保障の言葉にもかかわらず、撃沈されてしまったのです。

 乗客の大半は落命しましたが、私の家族は全員が奇跡的に助かりました。・・・・・一文無しとなって裸足かつ寝巻き姿で上陸した後は親戚や知人を訪ねて転々としました。お坊っちゃまが急に人の顔色をうかがわなければならない立場になってしまったのです。

 この過酷な体験は一方において私にとってなくてはならない財産形成に結びつきました。(詳しくは ⇒ 『トラウマになるような衝撃的な事故は類稀な才能に結びつく癖を生む』) 人生は何が幸いするか分らないものです。

 父が生まれ育った、静岡県沼津市に落ち着くことになりました。しかしながら、「台湾、台湾」と苛めを受けるだけではなく、時折襲う空襲に悩まされる生活でした。空襲があまりにもひどくなりましたので、私達子供は母の実家がある奈良に疎開することになりました。古都・奈良に近いということと、山間の農村ということが重なったためか、空襲はまったくありませんでした。

 でも、苛めは沼津よりもはるかにひどいものがありました。土地っ子達が「耳漏孔の手術が施された ⇒ ガーゼを詰めたまま傷後が縫られた ⇒ 癒えた傷跡を開いて膿を取った」となって三歳の時に耳朶の下に小さく横に広がるようにしてできた開口部を指して、「耳が三つある」と騒ぎ立てて集団で私一人をリンチするのです。したがって、私には生傷が絶えませんでした。

 終戦を迎え、沼津に戻ることになりました。ここでまた試練が待っていました。教師が私の生来の左利きを矯正するために、連日のように私に体罰を加えるのです。自然に学校から足が遠のくことになりました。

 日本上陸後、親戚や知人を訪ねて転々として人の顔色をうかがわなければならない立場になってしまった。沼津で近所の子供達から「台湾、台湾」と苛めを受けた。疎開先で「耳が三つある」と騒ぎ立てられ集団リンチを受けた。生来の左利きを矯正するために、連日のように体罰が加えられた。── こうした一連の経験も私にとってなくてはならない財産形成に結びつきました。

 多様性を受け入れる私の特徴強化に結びつき、三十歳の時、大仕事を任せてくれた社長から「彼らは才能はあるが、個性が強すぎる。使いこなせるのは君だけだ」とまで言われるほどになったのです。

 私は厳しい環境に置かれ続けてきたからといっていじけていたわけではありません。学校の授業にはまったくといっていいくらい身が入りませんでしたが、仕事に遊びに、元気はつらつの少年でした。

 敗戦により父は脱サラ。ところが、武士の商法で失敗。そこで、広い庭と家族労働を使える、小規模の畜産業を営むことになりました。

 畜産業といっても、対象となった動物は鶏・アンゴラウサギ・モルモット・山羊。庭を最大限に使ってこれらを飼うことになりました。この動物達の餌の調達を私が手伝うことになったのです。市内のなじみの魚屋を廻って、あらをただで貰ってくる。遠方まで出かけて行って、飼料用の草刈をする。草の生えているところに早朝山羊を杭つきで置き去りにし、夕方連れ戻す。これが私の日課でした。

 でも、この仕事のすべてが難行苦行だったわけではありません。なぜなら、近所の子供を大勢引き連れての草刈でしたので、ピクニック気分だったからです。仕事の合間を縫って自然を相手に遊びふけりもしました。

 山へ出かけていき、木の上に家を造ったりして、ターザンの真似をしたものでした。遊びの対象は山だけではありませんでした。小川の水を堰きとめて、水をかい出し、魚を手掴みするのです。捕った魚は夕食のおかずになったり、手作りの池で飼われたりしました。

 小学校の五年になると、この遊びに読書が加わりました。送り仮名をした日本文学全集が家にあったものですから、夜遅くまで読みふけり、六年の時にはすべてを読破していました。これによって、私の感受性はいやがうえにも磨かれたようです。

 字はへたくそだが、作文はずば抜けてうまく、よく表彰されたりしました。俳句などは「沼津文壇」に載ったほどでした。商社マン時代、インドのタジマハールを訪れ、独りで長い時間にわたって涙したことがありますが、この感受性は台湾時代に芽を出し、後年文学少年となり、育っていったのではないかと思っています。

 ただ、学校の勉強は授業が上の空であるだけではなく、家でもまったくしない。それどころか、サボる生活は後で私の人生軌道を大きく変えることに結びついていきました。

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中学時代

 中学二年の終わりに進学指導が行われ、私は家から徒歩五分のところにある静岡県立沼津東高等学校を志望しました。父と姉の母校である上に、兄も通っていましたから、私は行けて当たり前。このように思っていたにもかかわらず、教師から「とても無理」と判断されてしまいました。

 私は本を読めるが、漢字はほとんど書けない。他の学科もだめ。志望校は県東部のナンバーワン・スクール。教師の判断は正しかったのです。でも、私はびっくり仰天しました。それから、独学の猛勉強が始まりました。結果、成績は鰻登りで急上昇。半年間で志望校にらくらく入れるところまで漕ぎ着けることに成功しました。

 ところが、急性胆嚢炎に冒されてしまいました。戦中・戦後の食糧難で栄養不足で体が弱かったにもかかわらず、毎日遅くまで好きなテニスをしながらの連日深夜に及ぶ猛勉強。無茶苦茶な生活の報いだったのです。

 激痛と高熱の日が続き、主治医から高校受験を諦めるよう宣告されました。しかし、そんなことを素直に聞く私ではありません。

 その結果、受験校の養護室で試験を受けることになりました。一科目が始まる直前にカンフル注射を打ち、その科目が終わると、ベッドに倒れこむ。この繰り返しでした。試験を受けさせてもらうための医師と両親の説得以来の私には鬼気迫るものがあったようで、母親に「あんたは恐ろしい子だね」と言われたほどでした。

 お蔭様で上位の成績で合格することができましたが、私の青春期の長期彷徨に結びつく習慣がついてしまいました。空想癖がついてしまったのです。試験が終わってからも、病床生活。入学式には出席できないほどでした。文学少年の私はベッドの中で空想の世界に浸る生活を半年近くも続けていたから、こうなってしまったのです。


高校から大学卒業まで

 高校に通うようになってからも、この癖は矯正できませんでした。したがって、授業内容はまったく耳に入らない。その上、予習も復習も一切しない。なぜなら、授業が終わると、暗くなるまでテニス。夕食をとり終えると、睡魔が襲う。こんな毎日だったからです。体力が回復していなかったのだと思います。

 大学受験名門校でこんな生活を送っていたら、ひとたまりもありません。たちまちのうちに、最上位から最下位のクラスに転落してしまいました。一番ひどかったのは数学です。まったくついて行けなくなりました。

 そこで、心配した両親は私が通っていた高校の数学教師に、私の家庭教師を引き受けてくれるよう、頼み込みました。ところが、「見こみなし」ということであっさりと断られてしまいました。それほどひどい成績だったのです。

 負けん気の強い私は「よーし、今に見ておれ」と、独学で数学の基礎から勉強することを始めました。数学以外の授業の時は一番後ろの席で自習するほどの打ち込みようでした。

 たちまちのうちに数学は得意学科となり、解析1と解析2の試験問題集で解けない問題はないほどになりました。学年共通試験で100点を取り、一番に踊り出たほどです。件(くだん)の教師を問題の解き方で教室内でとっちめ、溜飲を下げることもできました。このことが私の運命を変えることに結びついていきました。運命とは不思議なものです。

 二年の終わりに志望大学を学校に報告することになりました。自信があるのは数学のみ。しかも、文科系の授業内容が選択されてきた。そこで、仕方なく、名古屋大学の経済学部を志望大学にすることにしました。配点が数学300点、その他は50点でしたので、がんばれば何とかなる。こう思ったからです。

 この選択に父親が猛反対。子供のために東京に家を購入していたからです。今思うと父親の気持ちはよく分かるのですが、当時の私は一度言い出したら後に引きません。売り言葉に買い言葉となり、三年の授業はほとんど受けず、すさんだ生活が始まりました。暗い暗い青春の始まりだったのです。

 今は止めていますが、この頃から深酒の習慣が始まったのです。未来を感じられない生活は成蹊大学政治経済学部を1962年3月に卒業するまで続きました。

 この青春の彷徨は複雑な心理のなせる業です。この心理状態を敢えて図式化すると、次の通りです。

 数学しか勉強してこなかった + アイデンティティを重視する性格の持ち主である ⇒ 本当のところは志望大学を決めたくなかった ⇒ 父親の反対に本能的に悪乗りして、「貴方が伸ばすべき個性的才能はこれだ!」と明言してくれる人が登場しやすいようにした。

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