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2018.12.25

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イノベーションのロジック注入が容易な習慣が身についている

【斬新な着眼】

→緊急の課題である“孫悟空”の短期育成はイノベーションのロジック注入によって実現できる──、あの高橋尚子さんと小出監督の動静から考える〈2003/3/11〉

 

   渡辺高哉の“大馬鹿行動”の概要と教訓は何か
― 個人的な条件だけで“孫悟空”の壁は打破できる ―

4. 困難な目標受容の習慣が十分醸成されていた

 自ら孫悟空的な行動を採りたい。孫悟空的な人材を生み出したい──、このようなことを願う人々の参考にもなるように、私がやり遂げてきたことを自問自答の形を採って説明します。

(質問1) どうしてもやり遂げなければ…と思っても、困難を想像するうちに意欲が萎えてしまうものです。この挑戦の障害をどうやって克服できたのですか?

(回答1) 自分が自発的に設定した目標はどんなに困難なことであっても受け入れる習慣が身についている。何事においてもプライドを優先させる性格の持ち主である──、この二つが挑戦の障害克服に結びついたのです。この二つをやや詳しく説明します。

心の奥底からの動機に基いて設定した目標はどんなに困難なことであっても受け入れる。こういうイノベーションのロジック注入が容易な習慣が身についている
 
 良い…と思ったことはどんどん採り入れて行動する──、お母さんの気質を私は受け継いだようです。そして、加齢と共に、「どうしてもやりたいことがある ⇒ 前途の障害を考えずに突っ走る ⇒ 突っ走りながら自分を大きく変えていく」という行動様式がすっかり板につきました。

 前述したこととかなりの部分が重複しますが、躊躇が一切なかった挑戦行動の例として九つ挙げることができます。
 
(例1) 中学3年になって早々のことです。志望高校の名前を挙げたところ、「君の成績では無理」と宣告された。そこで、家の仕事をしながら猛然と独学に励み、半年間でどん尻から学年10番に這い上がった。そして、病に倒れたが、上位の成績で志望高校に入学した。

(例2) 高校1年終了時、数学の成績はどん尻。教師は「見込みなし」と宣告。猛然と独学に励み、半年後には解析Ⅰ・Ⅱの大学受験問題で解けぬ問題なしの状態になり、学年1番に躍り出た。

(例3) 安宅産業入社が決まった後のことです。高校2年の終わりからずーっと続いたでたらめの生活が災いして、痔による連日の出血、胃潰瘍…という状態になり、医者が「就職は無理」と宣告。ところが、お父さんは「留年は許さない。一銭も出せない」と突き放し。    

 (多額の借金返済中。見通しの暗い生活を続ける私に大落胆中──、こういう状態に置かれていたお父さんは私の反発心を引き出すための一か八かの賭けをしたのだ、と思います)

 私は体重43キロ、しかも貧血の状態で入社。長期月賦でジューサーを購入して、大量の人参ジュースを毎日飲む…等の工夫を凝らして、周囲に弱みを一切見せることなく、社会人生活を送ることができた。(共同洗面所の流しに大量の人参を洗面器に毎日ぷかぷか浮かしていたので、「この独身寮には馬みたいな奴がいる」と大評判になったものです)

(例4) 医者が「就職は無理」と宣告されたような状態で安宅産業入社し、商社マンの登竜門である貿易の受け渡し業務に従事。仕事は超多忙で、残業続き。体力的についていけなくなった。そこで、この受け渡し業務の徹底的な合理策を創り、課長に認めさせた。その結果、連日続いていた残業から解放された。

土壇場の閃きが馬鹿力・馬鹿知恵を生み出す
(例5) 安宅産業に入社して2年目のこと。痔の手術のために入院していた病院から退院・出社直後、課長から「輸入担保金に基づく輸入実行の期限が切れた。ついては国庫に没収する、という通達が通産省からあった。直ちに、役員会に報告したが、君の履歴に傷がつくのを避けるためにお咎めなし…となった。だから、心配しなくてもよい」と伝えられた。

 (課内の貿易実務を独りで担当していた私は入院に伴う業務引継ぎの時に、期限間際になっている巨額の輸入担保金のことをきちっと伝えたつもりでしたが、言葉上の行き違いがあったのです)

 プライドの塊のような私は課長の制止を振り切って、行動を猛然と開始して全額回収に成功した。社内を唖然とさせたこの奇跡の背景には、

 旧通産省の担当係長の自宅住所を調べ、夜遅く訪問した ⇒ 「中小企業ならともかくも安宅産業は大企業ですから諦めるしかありません」という言葉の引き出しに成功した ⇒ ルールは杓子定規に(自動的に)ではなく、担当官の状況判断を入れる余地がある、と理解した ⇒ 担当官が納得できる書類を作成した──、という図式があったのです。(「土壇場の閃き ⇒ 馬鹿力・馬鹿知恵」の他の例 ⇒ 『渡辺高哉の“大馬鹿行動”の中身と教訓は何か』)

(例6) 安宅産業に入社して3年目のこと。「新人の森君に輸出入の受け渡し業務のすべて引き継いで、自分ひとりで商売をしなさい」と前田課長が宣告。真っ青になって本屋に駆け込み、分厚い英文模範文集を購入。独身寮を出て、交通の便の良い安アパートに引越し。

 朝の4時から通勤時間、トイレでの用足しの時間を当てて猛暗記。3ヶ月後には英語で不自由なく仕事ができるようになった。。(出社の日はトイレで毎日音読するものですから、「英語を読み上げている奴がいる。一体誰だ」と社内中の噂に上ったものです)

(例7) 西友ストアーに入社した時のこと。実践とスーパーマーケット経営理論とのすり合せの勉強をするために、朝4時に起床。1年足らずで「10年はスーパーにいるみたいですね」と同僚に言われるまでになった。

(例8) ユニオン製靴での請負事業を引き受けた時のこと。文字通りあらゆることを犠牲にして約束の2年間で目的を達成させた。但し、気管支炎をこじらせて、声がまともに出るようになるのに1年以上かかった。その上、風邪を引くと気管支が必ずやられる…という症状を克服するのに10年の歳月を要した──、という副産物つきであった。

(例9) 実践での文章作成経験は商業文のみ。本を書くなんて夢のまた夢。こういう人物が本のような調査研究報告書の作成を定常的な仕事にする、三菱総合研究所の研究職に猪突猛進。最初の仕事の時はさすがの私もノイローゼのような状態になったが、早朝ジョギングを習慣化することにより危機を乗り切ることに成功した。

(例10) 早朝ジョギングを始めた時のこと。35歳の若さであるにもかかわらず、50メートルも走れないのに吃驚。でも、走っては休み…を連日繰り返すうちに、7キロくらい連続して平気で走れるようになった。そして、早朝ジョギングをしないと、気が咎めるし、体調も思わしくないようになった。

 例1~9のような私だからこそ、お堂に閉じこもるが如き長年の研究生活を終え、着々進めていた再デビューの準備を棒に振る。こういうことをしてまでも末期肺ガンで余命3ヶ月…と医者に宣告された故・洋子を助けようと思って全身全霊を振り絞ったのです。

 でも、ずっーと続いた超睡眠不足の中での過度の緊張から開放された後、極度の心身障害に襲われ、長期間のリハビリ生活を余儀なくされました。したがって、お姉さんから通夜の時、「よくやった。でも、あんたのやったことは実に馬鹿げたことだったのよ」と言われたことを、強ち否定できないかもしれません。

 しかしながら、食事療法を徹底的に研究して独自の食生活を続けた結果、健康状態が急速に回復。これまでの人生で最高の頭脳状態になるだろう、という確かな予感があります。人生、何が幸いするか分からないものです。

 このページ文章のほとんどは老齢のために難聴になってしまったが、知的好奇心旺盛な遠隔地の母へのメールからの転載です。

何事においてもプライドを優先させる性格の持ち主である
 「プライドでは飯は食えないよ」という人が少なくありませんが、私は正反対です。「人生とは誇りを完成させるプロセスである」という言葉に接した時、「これは私のことだ」と思ったほどなのです。

 したがって、損をする羽目になったことが少なくありません。人生に大影響したできごとを二つだけ紹介します。

(できごと1)安宅産業時代、憧れのニューヨーク駐在員を棒に振った


 私が最初の会社である安宅産業を辞めたのが1968年の5月末。辞表を提出すると、対立中であった大野課長は憮然として書類を部長席に持って行きました。すると、ニューヨーク支店長から転任して間もない高橋部長は私を呼んで、

 「君の評判はよーく知っている。ニューヨークに行きたがっていることも。今行っている君の先輩を直ぐに呼び戻して代わりに君を派遣しよう。だから、この辞表を撤回しなさい」と私を強く説得してくださいました。

 私はこの誘いに乗りませんでした。すると、4日から5日して水田副社長から呼び出しを受けることになりました。(部長から本部長に昇格していた信澤さんは私が辞表を提出して以来暫く会社に出てこなくなってしまったのです)

 そして、「君は頭が良い部類に入る。そういう人物に限って辞めたがるものだ。でも、後で必ず後悔することになるのだ。今日1日時間をあげるからよく考えなさい」と同副社長から言われました。

 月とスッポンのような立場の相違を考えますと、上記のような言葉をかけられても何の不思議もありません。でも、私はカチンと来ました。なぜなら、ニューヨーク勤めを終えたばかりの同じ部の7年先輩が辞表を提出した時は、料亭に連れ出されて撤回の説得を受けたことを知っていたからです。私はこの先輩とは違って軽く扱われたのです。
 
 「なんという無礼な言葉なんだろう」と思った私は「よし今に見ておれ」という気持になり、退職を決行することとなりました。「ニューヨーク駐在員…」の言葉に心が揺れていただけに、同副社長が違った言葉をかけていたならば、辞表を撤回したかもしれません。

 転職は「自分の才覚を思う存分発揮して仕事をしたい」という切なる願いの実現手段のひとつにしか過ぎません。ニューヨーク駐在員になれば、この切なる願いが叶えられるだけではなく、絶えず考えていた脳力・能力の開発が急進展する道も開けたのです。したがって、2006年8月8日現在の私は

 自分が上記したような経緯で安宅産業退職に踏み切ってしまったことは「性格に振り回された ⇒ 視野狭窄症と拘禁服着用症から抜け出すことができなかった」という図式の典型的な例である。このように38年数ヶ月前のことを思い出して深く反省しています


 この頁の文章は、好奇心旺盛な耳が不自由になってしまった遠隔地に住む筆者の母へのメールを転載したものである
ことをご承知おきください。

(できごと2) 三菱総研での出世の道を自らの手で塞いでしまった

 マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』で52社から6240万円をかき集めることに成功した直後のことです。私と確執が続いていた社会経済関係の研究部門の最高責任者から呼び出されて、
 
 「この仕事を持って本来の部門に戻りなさい。そうしたら、きちっとした処遇にします。但し、君は態度を改めなければならない」と言われました。

 私はこの言葉を聞くと直ちに「それでは失礼します」と言って、役員室をさっさっと出ました。この最高責任者は「君には負けたよ。お互いに反省しなければならないね。どうだい、この仕事を持って本来の部門できちっとした体制でやらないかね」というようなことを言うべきだったのです。

 こういうことがあったために、私の昇進の芽は完全に摘み取られることになってしまいました。この最高責任者が猛烈に妨害し続けたからです。私が所属していた部門の担当役員がプロジェクト成立大成功後、「私が責任を持って君を必ず昇格させる」と明言していたにもかかわらずです。

 「できごと1」にしても「できごと2」にしても私の態度は大人気ないかもしれません。でも、こういう強烈なプライドは大事を成就させる際の最後の決め手になるのだ、と思います。人間の尊厳をかけた闘争心に勝るエネルギーはないからです。

(質問2)マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』で52社から6240万円をかき集めることに成功した背景には知恵ともの凄いパワーがあったこと、よく理解できました。そして、日本の産業界に“孫悟空”を生み出すための貴重なヒントも得られました。でも、大変な苦労は貴方にどんな恵みをもたらしたのですか?

(回答2) 念願の渡辺高哉理論をある程度完成させることに成功した。経営コンサルティング分野における三菱総研のパイオニアー役を演じることができた。安宅産業時代に憧れていた脳力を培うことに結びついた。世界一の創造的問題解決者を目指せるようになった──、という恵みを相次いで得ることができました。この四つをやや詳しく説明します。

念願の渡辺高哉理論をある程度完成させることに成功した
 企業の未来像を創る ⇒ 未来像実現手段として新規事業を開発する──、こういうことを成功させるための方法論の開発に1年専念したために、独自の本格的経営理論を一気に習得できました。

経営コンサルティング分野における三菱総研のパイオニアー役を演じることができた

 マルチクライアント・プロジェクト終了後、「わが社の新規事業開発に実際に適用して欲しい」という企業が3社現れました。したがって、念願の経営コンサルティング分野に円滑かつ本格的に進出することに成功しました。

 実際はもっと数多くの企業から注文がありましたが、営業部門にブロックされたために、私のところではなく、他の部門の受注になってしまいました。でも、受注難に苦しんでいた三菱総研には大きく貢献したわけです。

 こういうこともあったからこそ、1997年1月7日に出版した『脱集団主義の時代』は「なんということなの!」と言われるほど数多くの書評を獲得できたのです。合計14誌でした。一声かけたら協力がさっと得られたのです。有名どころでは『日経ビジネス』、『週刊読売』、『産経新聞』。特筆すべきは、次の二つです。

 1、超有名人である三菱総研の牧野昇さんが『財界』に書評を書いてくださった。
 2、本のエッセンスが三菱商事の『インフォーダイヤ』の巻頭言に私の写真入りで掲載された。

安宅産業時代に憧れていた脳力を培うことに結びついた
 私は始めての就職先である安宅産業で次のような経験をしました。私の上司である中村課長は丸一日を費やした課内会議の後、「この録音テープを業績拡大できるようまとめることのできる天才っていないかなぁ」とつぶやいたのです。そして、このつぶやきは実ることがありませんでした。丸一日を費やした会議は親睦会の域を超えることができなかったのです。

 ところが、今の私にとっては上記したようなことは、「私の右に出る者はいない」と言い切れるほど、得意中の得意になっているのです。しかも、会議のリード役を任されれば、出席者のやる気を引き出すこともできるようになっているのです。( ⇒『ワタナベ式問題解決へのアプローチ』&『超ハイブリッド・サービス』)

世界一の創造的問題解決者を目指せるようになった
 経営コンサルティングの仕事を重ねているうちに、「世界の政治・経済・社会の動向を洞察した上で事業戦略を策定できるようにならなければならない」と思うようになり、社会と隔絶した研究専念生活を長年送ることとなりました。その結果、世界一の創造的問題解決者を目指す。こういうライフワークを手に入れる幸せ者になったのです。

 (私が経営コンサルティング分野における三菱総研のパイオニアー役を演じ始めて暫くしてからの全役員・全幹部の会議の席上で、私が所属していた部門の担当役員である神谷専務(当時)から「渡辺君、日本一のコンサルタントになってください」と言われて、「そのつもりです」と答えたのを訂正しなければならないのです)

 だからこそ、「毎朝4時に起床 ⇒ 乾布摩擦等など ⇒ 疲れるまで専門的研究 ⇒ ジョギングよりもきつい40分の特殊歩行訓練 」から始まる毎日を送り、80才代に脳力のピークを迎えて、高齢化社会の灯台役を果たそうという、今日の私があるのです。(参考資料 ⇒ 『脳力のピークは80才代だ!



目次の前にある文章をお読みになっていない方へ

 上記の文章は筆者の母へのメールを転載したものであることをご承知おき下さい。



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