【斬新な着眼】

緊急の課題である“孫悟空”(超社員)の短期育成はイノベーションのロジック注入によって実現できる──、あの高橋尚子さんと小出監督の動静から考える〈2003/3/11〉
| このページ文章のほとんどは老齢のために難聴になってしまったが、知的好奇心旺盛な母へのメールからの転載です。 |
渡辺高哉の“大馬鹿行動”の中身と教訓は何か
― 個人的な条件だけで“孫悟空”の壁は打破できる ―
1.野心の前途には巨大な壁が幾重にも立ちはだかっていた
自ら孫悟空的な行動を採りたい。孫悟空的な人材を生み出したい──、このようなことを願う人々の参考にもなるように、私が仕事の世界でやり遂げてきたことを、分かりやすくするために自問自答の形を採って説明します。
(質問1) どんなことをやるために孫悟空的行動を採ったのでしょうか?
(回答2) 私は商社マン(安宅産業)、チェーンストアー(西友ストア)、メーカー主宰のボランタリー・チェーン形成の請負(ユニオン製靴)…等──、というユニークなビジネス経験を積み上げてきました。そして、
「現場の中に飛び込めば、どんな仕事でも成功させることができる」「センスが80%、残りの20%は現場から得られる専門知識である」「現場の人が持っている専門知識はギブ&テイクによって容易に得られる」という結論に達していました。そういう時に(ユニオン製靴の請負の仕事が終わりかかっている時に)、ある有力者から
「貴方の仕事の進め方を手法にまとめると、大変な売り物になる」と言われて、自信満々であったビジネスセンスは理論体系化されていないことに気づきました。そこで、「よし、これまでの多様な経験にプラスアルファをして渡辺高哉理論を創り上げよう!」と決意して、三菱総研入社を決意したのでした。
| 日本一の頭脳の持ち主からの極めて高い評価が後押しをしてくれた |
|
|
|
三菱総研入社の報告を私から受けたお父さんは「日本の社会ではマイナスであった高哉の転職歴は逆転してすべてプラスになる」と大変喜んでくれましました。しかしながら、私の狙いはまったく違うところにあったのです。でも、お父さんの三菱総研入社の賛意は私を勇気づけてくれました。なぜなら、
東大を辞めて組織工学研究所を主宰していた糸川英夫さんから「貴方のような人は普通の会社にいては駄目です。私を踏み台にして世界に向かって大飛躍しなさい」と誘われた時、お父さんは「糸川さんは日本一の頭脳の持ち主。高哉にはまだ早すぎる」と反対しました。(糸川英夫さんと渡辺高哉の対談)
にもかかわらず、上記の賛意を表したということは私の成長を認めてくれたことを証明するものである、と判断したからです。 |
|
三菱総研に勇躍入社した私に過酷な環境が待ち受けておりました。当時の三菱総研は資本金を超える累積赤字に悩まされ、存亡の危機に立たされていました。したがって、稼ぎ出さなくてはならない研究職には厳しい業績ノルマが課せられていました。そして、35歳の新参者には特に容赦がなかったからです。
精神的なリンチ、必要経費である領収書に基く支払いストップ…という仕打ちを、ノルマに達しそうにない場合は受けなければならかったのです。私は乞食のようになって仕事探しをしなければなりませんでした。仕事を選ぶなんてことは夢のまた夢でした。
そんな時、「これだ!」と思えることにぶつかりました。研究開発型企業育成センターからやっとの思いで受注にこぎつけた『研究開発型企業の安定化と成長策』の仕事で経営者達と議論をしますと、
「あそこで成功した新製品、あれは私が一番先に考えついたものです」と自慢げに言う。自分の会社では事業化するには至らなかったにもかかわらず…です。そして、その反面、うまくいかない技術開発にのめりこんでしまって撤退しようとしないのです。
「どんな技術・製品・市場を開発するか」を適切に決めること──、これが企業経営で一番大事なことである、という天の啓示を私は受けました。
この啓示に基づく行動を私は早速開始しました。『新規事業開発の手引き』というマルチクライアント・プロジェクト(数多くの顧客に同じ内容の成果を提供する乗り合いバス方式のプロジェクト)を発案して、たった一人で52社から合計6200万円を集めて仕事を成功させたのです──、これが私の場合の孫悟空的な仕事の最たるものです。
このプロジェクトを契機に経営コンサルティング業を私は師匠役なしで営むことができるようになったのです。
(質問3) 快挙であることは間違いないが、そんなことは三菱総研が所属していた業界では特に珍しいことではないはず。にもかかわらず、孫悟空的な仕事であったとする根拠は何処にあるのでしょうか?
(回答3) マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』の成功が孫悟空的な快挙であったとする根拠は五つあります。
|
|
|
 |
(根拠1)私個人は無論のこと、三菱総研にも類似の実績は皆無であった。
コンピューター・ソフトウェアの受託開発、超大型コンピューターによる計算受託、政府筋中心の受託調査──、この三つが当時の三菱総研の事業内容であって、経営コンサルティング的なことは誰一人としてやったことがなかったのです。
|
|
|
|
 |
(根拠2) 方法論(ノウハウ)を開発して売るようなマルチクライアント・プロジェクトの実績は業界を見渡しても皆無であった。
調査や予測結果を売り物にするマルチクライアント・プロジェクトは三菱総研並びに競合会社の大きな収益源でした。ところが、どのようにしたら成功できるか…といったような方法論(ノウハウ)のプロジェクトは「決して成立しない」と言われていたのです。
|
|
|
|
 |
(根拠3) 孤立無援であるどころか妨害の危険性があった。
私は三菱総研に入社して暫くしてからコンピューター部門以外の部門の人事権を一手に掌握している権力者と激しく対立しました。そして、溝は深まるばかりで、社会・経済関係の部門から追い出され、技術畑の人間から構成される部門に配属されることになってしまっていたのです。
|
|
|
|
 |
(根拠4) 受注活動の失敗=クビ(解雇)を覚悟しなければならなかった。
1年間専念して『新規事業開発の手引き』を完成させたい、また、それだけかかるだろう──、これが目論見でした。これはプロジェクトの採算ラインは4000万円であることを意味していました。私には専任の助手が一人いましたので、2人分のノルマがこの金額だったのです。
蓋を開けて見なければ分からないのがマルチクライアント・プロジェクトですから危険一杯です。しかも、私は根拠3にあるような立場に置かれていましたので、文字通り背水の陣で事に臨んだのです。
|
|
|
|
 |
(根拠5) 常識的に考えれば、時間的余裕は皆無…という状態の下での受注活動であった。
三菱総研のようなシンクタンクの仕事に対する社会的認知度はきわめて低い。自力で仕事を創らなければならない(組織的な応援は皆無である)。ノルマの追及が厳しい──、という条件が重なっていましたので、昼間は営業と企画書の作成で忙殺されていました。したがって、受注した仕事をこなすのは夜と休日でした。
夏休み、正月休みはデスクワークに集中できる絶好の機会でした。こういう生活を長年続けてきたために、息子の翼から「子供時代のお父さんの記憶はほとんどない」と言われてしまう始末なのです。
|
|