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【渡辺高哉はこんな人物】


→私の人生遍歴

安宅産業時代

 安宅産業に入社して配属されたのが鉄鋼原料課。取引先の八幡製鉄の社員と話をしてびっくりしました。大して年が離れていないのに、圧倒的な知識の差、見識の差。高校3年から大学を卒業するまでの生活を大いに恥じました。そこで、「勉強しなければ…」と決意を固めました。

 しかし、読書は長続きしませんでした。すっかり怠け者になっていたのですから仕方ありません。仕方なく図書館に通って、周囲の圧力を利用して、読書の習慣をつけることから始めたものでした。

 したがって、同僚とのプライベートな付き合いは熱心ではありませんでした。でも、仕事には情熱を傾けました。叔母から「仕事師」と言われたほどでした。

 貿易手続きや経理用の伝票の仕組みを抜本的に改革したり、次々と新しいビジネスを創ったりしました。私の噂は広まり、大阪の伯母から「高哉は拾い物だ。あなたのお父さんはそう言っていますよ」と伝えられるほどでした。

 でも、この商社の仕事はどうしても飽き足りませんでした。男芸者のような先輩たちの姿を見て、「こんなやり方で長続きするのだろうか…」という疑問を抱いたこと。大プロジェクトを構想しても、年齢から来る限界があることを痛感したこと。こんなことが原因していたのです。

 商社マンは企画で勝負しなければならない。そのためには、一人一人がもっと勉強しなければならない。こんなことを内容とする建白書を経営者に提起したりしたものでした。

 それから、私には「30才になるまでに歴史に残る大仕事をしなければ…」という焦りに似た想いがありました。高校3年からの脱線人生から来る欲求不満を一気に解消にしたかったのでしょう。その結果が、若輩者でも大仕事がやれる立場へのスイッチ、つまり転職でした。

シンクタンクやコンサルティング稼業の前哨戦時代

 その最初が西友ストアー。牧場経営からカット肉の販売までを一貫して行うシステムを創りたかったのです。この背景には、食糧危機の経験者らしい想いがあるのです。すなわち、平時は動物の腹を通して、植物を採り、非常時は植物を直接採る。それによって、日本の食糧の安全保証体制を確立する。こんなことを考えていたのです。

 こういうことをやらせてもらえる…という約束をして、西友ストアーに入社しましたが、三菱商事と西友ストアーがタイアップすることになったので、この約束は反故にされることになりました。

 そこで、昭和産業とタイアップして、小麦粉から小麦粉製品までの垂直的統合を行ったり、食品部門の構造改革のために、5ヶ年計画を策定したり、食品売り場の商品構成の変革などを行ったりしました。でも、欲求不満が募りました。そこで、次は紳士靴のトップメーカーで、大きなプロジェクトを引き受けることになりました。

 皮革産業の垂直並びに水平的統合を成し遂げる。これが引き受けたプロジェクトでした。独立小売店に対しては、プッシュではなく、プルのマーケティング力を築き上げること。チェーン展開をしている大型小売店に対しては、価格支配権を維持・強化すること。この二つが狙いだったのです。

 私の請負は大成功。日本能率協会出版の相良竜介著『企業の頭脳集団』に紹介されるほどでした。私にこの仕事をさせてくれたのはユニオン製靴です。でも、私はここに落ち着くことはできませんでした。

シンクタンクやコンサルティング稼業時代

 次の就職先は三菱総合研究所。これまでの経験にプラスアルファして、渡辺高哉理論を創り上げたい。そして、「ビジネスを創り上げるも、商取引の流れには入らずに、ロイヤルティー収入を得るようにしたい」という商社マン時代の夢があったことも、この選択の背景にはありました。(商社マン時代、ドキュメンテーションの煩雑さに悩まされて、こんなことをいつも考えていたのです)

 これは甘い幻想でした。試練が待ち受けていたのです。私が入社した時には、すでに資本金を超える累積赤字。したがって、きびしいノルマの追求が待ち受けていたのです。したがって、乞食のように仕事を探し求めなくてはなりませんでしたので、専門分野を確立できず、悩んだものでした。

 でも、私はめげませんでした。試練を乗りきれば、超人的な知力を身につけることができると直観したからです。したがって、三菱総研に在籍していた13年8ヶ月の間、休みらしい休みを取ることがありませんでした。その結果、入社当時には考えられないような知的能力を身につけることに成功しました。

 とは言いましても、私の知的能力の開発は順調に進んだわけではありません。最初の仕事を遂行している途中、調査研究報告書がうまくまとまらず、ノイローゼのようになったことがあったのです。ビジネスの実践しか経験したことがない人間にとって壁は巨大すぎたのです。しかし、初志貫徹するためには誰にも弱みを見せられないので、血流を良くするための早朝ジョギング。かくしてノイローゼ状態から脱却。

 懸命の努力再開。約2年後に納得できる成果を出せるようになり、もっともっとの心境になり、シンクタンクを使い慣れた顧客から「こんなに骨格のしっかりした調査研究報告書を見たことがない」と言われるほどになった。「渡辺君の文章は体系性に欠ける」と上層部から陰口を叩かたことがあったので、悔しくて涙が出るほどでした。

 人事権を握る経営者と対立したことに起因する昇進ストップもあり、すさまじいストレス。この解消のために鯨飲馬食をして吐く生活が毎晩のように続く時期もありました。しかし、決してめげませんでした。その結果、専門分野を確立できない悩み解決に結びつく運が転げこんできました。

 豊田市地域商業近代化ビジョンの策定がそうです。プロポーザルが公募されましたが、この種の仕事を担当するのに一番ふさわしい部署が最初から諦めてしまったので、私にチャンスが廻ってきたのです。

 この部署は過去何度挑戦しても、地域商業の診断分野の仕事がとれない。だから、応募のためにプロポーザルを作成することは時間の無駄。このように判断したからです。私はすかさず、手を上げました。その結果、私のプロポーザルが一位となり、プロジェクトを受注。仕事の出来上がりは、「経営戦略の見本」と言われるほどの出来映えとなりました。 ⇒『魅力ある地域商業づくりのために

 そして、これが三菱総研における経営コンサルティング分野のパイオニア役を私が演じる際の大きな助けとなりました。

 豊田市の仕事が終わって2年後、私は大変な離れ技を演じることに成功しました。マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』を、受注済みの仕事をこなしながら、企画から営業までたった一人で行い、52社から6200万円を集めたのです。

 この種の仕事で実績のない三菱総研のイメージを一新するために、私は2種類の材料を使いました。中小企業振興事業団の機関紙に連載されていた、私の小論『経営のヒント』集。これがひとつ。もうひとつが豊田市の仕事の要約版だったのです。

 このマルチクライアント・プロジェクトは受注金額が金額だけに、助手を使って、1年間この仕事に専念でき、念願の「これまでの経験にプラスアルファして、渡辺高哉理論を創り上げたい」をある程度実現させることができました。だからこそ、たった一人で、経営コンサルティング分野に進出し、数々の成功実績を上げることができたのです。

 私のことを「綱渡りの名人」と評する人がいますが、経営コンサルティング分野への進出に結び付けた、一連のやり方を指してのことだと理解しています。瀬戸際作戦の連続なので、廻りの人ははらはらしながら、私のことを観察していたのでしょう。

 私の経営コンサルティングの方法論は自分で開発したもので師となる人がいたわけではありません。完全な自己流なのです。ですから、私は「この方法論を違った角度から検証したい」と思いはじめました。それから、収入アップの必要性に迫られていました。そこで、この二つの願望をかなえてくれそうな企業に一時期身を置いたこともあります。

◎度胸と創意工夫だけが頼りの挑戦人生の要約

 安宅産業を辞めた直後のユニオン製靴での請け負い、西友ストアーを辞めて三菱総研で調査研究の受託業務を始めたこと、豊田市地域商業近代化ビジョンの策定、マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』、経営コンサルティング分野への参入…は「冒険探吉」そのものでした。

 なぜなら、過去と断絶した未経験分野であること、指導者は存在しなかったこと…の二つの条件が重なったからです。

  (「経営コンサルティングはともかくも調査研究の受託業務だったら三菱総研には経験豊かな人が沢山いるのでは?」と思われるかもしれませんが、私が35歳で入社したこと、厳しい収益ノルマ制が敷かれていること、仕事の受注が容易ではないこと…等が原因して、現実はそんなに甘いものではなかったのです)

 そうした中でも、マルチクライアント・プロジェクト『新規事業開発の手引き』の時は極端な表現をしますと、命がけでした。なぜなら、このプロジェクトは三つの特徴があったからです。

約束事である企画書の内容を実現させるためには、最低30社の顧客数が必要である。(常識的には目標達成は不可能に近いものでした)

「仕事の受注が容易ではない ⇒ 収益を上げられない不稼動期間が発生する ⇒ 数多くの仕事を並行してこなさなくてはならない ⇒ 休日を取れない。しかも、連日仕事漬けにならざるを得ない」という図式の過酷な勤務状態の中で、受注活動を行わなければならない。

組織的に認められたものではないので、上記の顧客数を大幅に下回る時は解雇の対象となりかねない。

 上記プロジェクトの集客が目標を大幅に下回ることが私の解雇に結びついてしまう。集客に成功してもプロジェクトが失敗に帰してしまう。こうなってしまうと、志が頓挫してしまうだけではありません。私が一番大事にしてきたプライドを失ってしまいます。

 したがって、私単独での受注期間中のみらず、企画内容を実現させるための調査研究中も極度の緊張を強いられました。首から肩にかけて異常なこりに襲われて、整体治療院に通い続けたほどです。安月給でしたので、健康保険が使えないこの通院は経済的に厳しいものがありました。

 市場開発効率化革命のお陰で顧客数52社を獲得できたために、所期の目的を達成できました。しかしながら、「馬鹿だなあ、なんでそんな苦労するのだ」…という友人の声に接して、「三菱総研在職中に雑多な知識・情報をグランドデザイン化された創造的問題解決策に変換させる化学プラントのような頭脳の持ち主になり、長年の夢を実現させたい」…という私の想いの理解は得られにくいものだ、とつくづく感じたものでした。

 と同時に、「内発的動機に基く自己決定 ⇒ なるが故の粘り強い挑戦」…という私の人生リズムの源となった幼少時の自由奔放な生活──、このような環境を与えてくれた両親に感謝の念で一杯です。

知的枠組みの大拡大時代

 私は組織を離れ、顧客企業に単身で乗り込んだこともあります。そんな生活を送っていた時、「このままでは大変なことになる」と電撃が身体の中を走るような想いをしたことがあります。東西冷戦構造の終結を予感したのです。

 世界が今後どうなる。だから、こうしなければならない。これを自分の力ではっきりと描ききれないと、仕事ができなくなる。こんな恐怖感が私を襲ったのです。私は何時の間にか経営戦略家。

 これまでは経営をよく知り、人間の行動科学的な知恵さえあれば、適切な戦略を打ち立てることができました。世の中が様変わりしてしまうと、そうはいかない。いわゆるエコノミストは経済全体を機械装置のように静態的にしか捉えていない。したがって、環境不透明時代には役に立ちません。だから、恐怖感が私を襲ったのです。

 私は三菱総研時代に各方面から「優れた経営センスの持ち主」と高く評価され続けてきましたが、このセンスはユニオン製靴の創業社長と行動を共にしたことによって培われたものです。同社長に感謝一杯の気持ちです。話を元に戻します。

 かくして、「世界が今後どうなる。だから、こうしなければならない」を自力で描ききるために、私は長い長い、穴倉に閉じこもるような生活に突入しました。(大きな決断の背景 ⇒『私が研究プロジェクトに単独で専念することを決断した理由』) 「蟹の横ばい」と揶揄されもしました。

 私は世界の政治・経済・社会の動向を洞察できるようになる。このための研究の傍ら、もうひとつテーマをも追いかけました。

 「国民総囲い込み体制」の崩壊とグローバリゼーションの進展は必至。となると、多様な価値観や立場を見抜き、「人を見て法を説く」がごとくに人を自在に動かす能力を培わなければならない。このように認識して、「交渉成功プログラム」(交渉は幅広く捉え、良好な人間関係を築くこと、新規事業の開発に成功することなども含まれています)の開発をも並行的に行うことにしたのです。

 「プロの鏡ですね」という言葉が聞こえてきそうです。これはちょっと面はゆいですから、この一風変わった生活の背景にあるもう一つの理由を告白しなければなりません。エゴイズム剥き出しの面もあったのです。

 三菱総研在職中に、私は『高齢者研究』に携わったことがありますが、ここで実に興味深い知見を得ることができました。なんと、挑戦的人生を送り続ければ、80才代まで知力を伸ばし続けることができることが分かったのです。かくして、上り坂の状態で死を迎えたい。こういう想いを私は持つようになったのです。

 こういう想いもあったので、研究専念生活に迷うことなく突入することになったのです。知的な枠組みを思いきって大きくして、知的好奇心を持ち続けたい。そうすれば、死ぬまで知力を伸ばすことができ、肉体は衰えても、プライドを充足できる人生を送ることができる。こういう実に個人的な野心もあったのです。(私のモットーは、社会人になってからですが、「人生とは誇りを完成させるプロセスである」なのです)

 私は元々いわゆるエコノミストではありません。したがって、自ら掲げた研究は楽ではありませんでしたが、きちっと成果を上げることができました。経済評論家や政治評論家の評論を聞いた直後、その評論家がどんな有名人であろうと、考え方の矛盾や抜けを瞬時にずばり指摘できるところまで力をつけました。(証拠例 ⇒『「日本復活道遠し!」となっているのはなぜなのか?』&『日本を復活させるためにはどうしたらよいのか?

 長期にわたる研究の結果得た知見の一部を、『脱集団主義の時代』という本にまとめて出版。日経ビジネス、週間読売など数多くのマスコミ誌に取り上げられました。そして、金融ビッグバンの実施。新たに知的武装を整えた、私の市場再参入の条件が揃い、新創業研究所を主宰することになりました。そして、紆余曲折を経て知的インフラを担う決意を固め、今日に至っています。→新創業研究所が提供するサービスの特徴とその背景

 過去の歩みに斬新な着眼を注入して「低迷」から「躍進」人生に転じる秘策

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