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今、日本人の心はどうなっているのか? だから、どうすべきなのか?

緑色の箇所は2008.10.18に追記

→オウムに嵌った林郁夫は他人事ではない!― 自立と自律力養成の薦め ―〈2004/5/5〉

日本社会の生命力が低下しつつある

 以下のコンテンツは約12年前に創ったものですが、現在でも通用する本質を抉り出したものであると、自負しています。2020年11月6日記


二大本能(生存の拡大&恒常性の維持)の充足が困難になっている

(理由1) 自分を殺して生きることが必要になっている

(証拠1) 役割が固定されている場合が多い

 右肩上がりの成長が困難になったために、二つの図式が実現する場合が多くなったことが原因しているのです。

(図式1) 企業規模の拡大が困難になっている ⇒ 社内の地位上昇が困難になっている ⇒ 役割の固定傾向が顕著になった。

(図式2) チャンスが少なくなった ⇒ 横並びするしかないように思われる + 日本の社会は元々人間関係が癒着しやすい。したがって、アメリカのようなオークション (auction) 性は一段と期待しにくくなった ⇒ 親と子の地位の継承性を強化したい…という動機が一段と高まった。

 役割が固定されていても業績が適切に評価されていれば、専門的な能力を磨くエネルギーの高揚に結びつくことが期待できます。この点はどうなのでしょうか?


(証拠2) 創造力強化に結びつきにくい業績評価になっていることが多い

 日本の企業が年功序列制を採用していた背景には、過去の延長線上の仕事をやるだけで必要な業績を上げることができたことがあります。ところが、過去の延長線上には未来が見えてこない時代が到来。かくして、成果主義が採用されることになりました。したがって、成果主義が効果を発揮するためには、

 「社員一人一人の潜在能力並びに願望は何か?」「潜在能力の発揮や願望実現に結びつくチャンスが与えられているか?」 ── この二つに十分気を配ることが必要になります。ところが、日本社会に根づいている短絡主義が災いして、下記の図式に陥ってしまっていることが多くなっているようです。

 人事部や上司が恣意的に評価できる。いいかえれば、公平性を欠く人事考課が行われる⇒ 上司におべんちゃらを言い、同僚を蹴落とす人が良い想いをすることになってしまっている ⇒ 必要不可欠になったナレッジ・マネジメントが行いにくくなった。

 組織を離脱して独立するなり転籍するなりして正当な評価が受けられるようになるのであれば、社会全体としての活力の維持・今日は可能です。この点はどうなのでしょうか?

(証拠3) 社会的に有益な価値を提供する者の評価は必ずしも高くない

 ITブームの波に乗った人が高所得。一方において伝統工芸家は低所得。前者は後者の販売促進を手伝う電脳ショップを提供するのみ。後者は人に感動を与える作品を末永く世に残します。

 どちらの方が社会的に有益な価値を提供しているのでしょうか? 判断は難しいものがありますが、所得格差に比例して前者が後者の価値を上回るものであるとは言えません。このような不公平感を募らせることに結びつく例はその他にも沢山あります。上記の電脳ショップ隆盛の背景には、

 非価格競争力の強化が必要不可欠になった。しかしながら、革新的な技術開発の採算が取りにくくなった ⇒ 環境変化を複眼で捉えた超ハイブリッド型の大型新規事業を構想する脳力が必要になった。しかしながら、政治家同様ビジネス・パーソンも独創的な構想を打ち出す脳力が不足している ⇒ 各企業は個性的需要への対応策、コスト革新に結びつくビジネス・モデルを血眼で探すようになった──、という図式があります。

 ところが、上記のような図式を一般の人が認識することは不可能に近いものがあるのです。(ビジネス・パーソンも独創的な構想を打ち出す脳力が必要不可欠になりつつある理由 ⇒ 『アメーバー的事業展開の呪縛からの脱出が急がれる…の補足』)

 自分を殺して生きていても生きがいのある社会を実現させる意図を支配層が持っていれば、将来に備えて己を磨く気になれます。この点はどうなのでしょうか?

(理由2) 日本の支配体制は保守本能むき出しである

 「人格者である」という評判の経営者が企業倒産に直面すると、社員をほったらかして自分のことしか考えない。「企業の利益よりも雇用確保を優先させる」ということを長年に亘って標榜していた企業が連続赤字経営に直面した途端に企業・経営者エゴイズムを剥き出しにする。

 上記のようなことはよくあることです。人間や人間が運営する組織の本質は順調な時には露呈しないものなのです。限界状況や大きな節目を迎えた時になってはじめて正体が分かるのです。日本の社会についてもこのことが当てはまるでしょうか?

 日本社会の大きな節目であるオウム事件に対する裁判所・マスコミ・一般大衆の最終結論は「日本の現体制は批判が許されない神聖な存在である」「現体制に背いた者の敗者復活は認めない」「フロント・ランナーの存在は眼中にない」── の三つであると理解した筆者は上記したことは日本社会にも当てはまるのではないか…と思うに至りました。

●日本の現体制は批判が許されない神聖な存在である…と理解した根拠は何か?

 オウム真理教はこれまでの犯罪者集団とは異なり、真面目であった学歴エリートを集めることに成功している。しかも、有罪判決を受けた後、なんと約4割が団体に復帰しており、未確認のシンパの数は非常に多いとのことです。にもかかわらず、三つの現象が発生しました。

(現象1) 反体制の宗教は宗教として認めない

 キリスト教は十字軍で、イスラム教はジハードで殺人を犯しています。にもかかわらず、「オウム真理教は殺人者集団。だから、麻原彰晃は宗教家ではない」と評価したのは、体制のためにあるのが宗教である…という考え方があるからなのではないでしょうか。

(現象2) 臭いものには蓋をする意図が感じられる

 「裁判は違法行為を裁くものであって、事件の背景を裁くものではない」ということで事件の背景分析は行われなかったのはおかしい…と言わざるを得ません。理由は二つあります。

 この事件は社会システムが引き起こした面があるので、法律は社会秩序の維持や形成の手段であるからには法解釈の前提である社会システムにコメントがあってしかるべきである。これが理由のひとつです。情状酌量は常態化している。いいかえれば、事件の背景を裁いている。これがもうひとつの理由です。

 「麻原彰晃がほとんど沈黙を守り続けたから…」という言い訳は通用しないのではないでしょうか。なぜなら、状況証拠が判断材料に用いることは常識になっているからです。それではどうして事件の背景分析を行わなかったのでしょうか?

 背景分析をすると“パンドラの箱を開ける”状態になってしまい、多くの人がなんとなく感じている現体制に対する不信感が明確なものになってしまう。このことを恐れるあまり臭いものには蓋をするような態度を採ることになったのではないでしょうか。

●現体制に背いた者の敗者復活は認めない…と理解した根拠は何か?

 「破防法」の適用を拒否する一方において、麻原彰晃の娘が入学試験に合格しながら入学を拒否された等など、教徒や旧教徒達の「社会復帰」が妨害されています。これは所属集団に背いた者の敗者復活は認めない、日本の伝統を残そうとする意図の現われではないでしょうか。

 集団の規律を守らない者は村八分にして合法的に抹殺する陰湿なやり方が日本に相変わらず残っていると考えてもおかしくはないのではないでしょうか。

●フロント・ランナーの存在は眼中にない…と理解した根拠は何か?

 麻原彰晃は裁判の最初の意見陳述で「聖無頓着」 (怒っていることに無関心、無頓着である) と述べたそうです。こういう事実があるにもかかわらず、「麻原は6年半何もしゃべっていない。だから、彼は廃人になってしまっているのではないか」という意見がまかり通っているのが何よりの証拠です。

 日本人は似たような人物に囲まれた生活を長く続けているために、「脱集団主義的行動を採る人間 = 排除すべきおかしな人間」という判断ロジックが作動しがちなのです。筆者も似たような経験をしました。

 閉じこもって行う受託研究に専念、故人となった妻との共闘、事後の自分自身のリハビリテーション…を含めて約10年間社会的に孤立した生活を送り続けていた筆者 (詳しくは ⇒ 『延々と続く穴倉生活の開始』)に対して、

 「貴方のこの10年はまったく評価できない。自分の恥になるからキーパーソンに紹介するわけにはいかない。組織に所属することを仮に希望するとすれば、パートタイマー並みの給料でしか払われないであろう」と開いた口がふさがらないようなことを言い放つ知人ですらいたのです。

 この知人が東証一部上場企業の常務取締役を務めることになったような人物であることに日本社会の深刻さがあるのです。

 将来を見通せない、洞察力が欠落した人物が日本社会のトップ層にうようよしているのです。(洞察力欠落の一般的原因 ⇒ 『事の真相を見抜けないのはどうしてなのか』) したがって、数多くの能力ある人材は埋もれたままになっているのです。(詳しくは ⇒ 『民間経済は優れた要素を生かせていない』)


“会社人間”から“自己防衛人間”に転換しなければならない時代がやってきた

 上記のような人物が社会のトップ層にひしめいていることは常に否定しなければならないものではありません。人々が置かれる環境次第なのです。

 社会が封建的であったり、ほぼ一直線での成長が可能であれば、“無能なトップ”の存在は歓迎できます。どうしてなのでしょうか?

 強力なリーダーシップが組織を支配しない + 先行きを見通すことが容易である ⇒ 部下達は自由闊達に行動できる ⇒ 組織の活力を維持できる──、という図式実現が可能になるからです。

 自由な社会に生きているがほぼ一直線での成長は不可能であれば、“無能なトップ”の存在は迷惑そのものとなります。どうしてなのでしょうか? 下記二つの図式が待ち受けているからです。

図式1 : これから世の中はどうなるか? だからどうすべきか?…という事柄はトップの専管事項である場合が多かった (部下達は環境変化への適応力は養われにくかった) +将来を見通せない、洞察力が欠落した人物がトップの地位についている + 環境不透明である ⇒ 組織は迷走せざるを得ない ⇒ 部下達は路頭に迷いかねない。

図式2 : (トップの知力が大幅に不足しがちである ⇒ 集団構成員のコンセンサスを重視する ⇒ 染みついた習慣や既得権益の打破に結びつくことが忌避される ⇒ お互いに持っている“脛の傷”を舐めあってきた)+(資源の乏しい島国に数多くの人がひしめいて生きている + 蛸壺型社会構造が集団構成員間の情緒一体感をこよなく大事にする風習を根づかせた ⇒ 破壊的行為を忌避するようになった)

⇒ 共同体温存が強く志向されるようになった ⇒ 抜本策を講じるのではなく、頂門の一針効果を狙ったスケープゴート主義が根づいた ⇒ 「法・ルールの下で全員が平等である」は欺瞞に過ぎなくなった ⇒ 個人パワーは自助努力がない限り弱くならざるを得ない。

 上記の図式は改まるのでしょうか? 例外を除いて短期間では無理でしょう。なぜなら、下記の図式が根づいているからです。

 右肩上がりの成長が可能であった⇒新卒者の大量定期採用が可能であった ⇒ 年次バランス人事システムを採用してきた ⇒ 各職場に散らばった同期の桜を通じての膨大な情報交換が可能であった ⇒ 大事をなし崩し的に決定する経営が可能であった ⇒ トップはお神輿の上に乗るが如き経営を行うことができた ⇒ 知力を鍛えないまま今日に至っている。


 “無能なトップ”を戴いているビジネス・パーソンはどうしたら路頭に迷わずにすむのでしょうか?

 大事は言いなりにではなく自分で考え自分で決められるような判断力・構想力を培う。上司の指示・命令を円滑に撤回させるための技術を習得する。 ── この二つを粘り強く心がけることを至急開始しなければなりません。

日本の支配体制の保守本能むき出しは理解できなくもない

 反体制の宗教は宗教として認めない、現体制に背いた者の敗者復活は認めない…とする筆者の説明を読み、「反官びいきの日本人がどうして?」という疑問が生まれるでしょう。この疑問に答えます。

 オウム真理教は一般市民を殺害してしまった。これでは頼朝に追われた義経を応援する心情は生まれようがありません。その上、全共闘の挫折は「権力と戦っても勝ち目がない」という心境を日本人全体に植えつけたので、もうひとつの日本人の特徴である「長いものには巻かれろ!」の方が勝ったこともあります。

 それから日本人の反官びいきの由来を考えてみる必要がありそうです。日本人には「平等主義思想が根づいた ⇒ 突出した存在に対して反感を抱きがちとなった」という図式があり、これが圧倒的に強い官に対する反感に結びついたと言えそうです。

 このように考えると、日本人の反官びいきは過去のものとなっていると言えなくもありません。なぜなら、実力主義の下に平等主義思想は影を潜めてきたからです。

 この実力主義が蔓延すると日本の社会はどうなるのでしょうか? 終身雇用制度の下での年功序列で辛うじて保ってきた社会の安定が崩れ去りかねません。

 こういうこともあって、日本の支配層は現体制を必死に守ろうとしている…と考えられなくもありません。(補足説明 ⇒ 『「神の国発言」が選挙の争点になれるのはなぜか』) この姿勢が過渡的なものであれば是認できますが、果たしてどうなのでしょうか?


改革を断行できる支配体制を生み出すのは至難の技である

(理由1) 政党も政治家も似たり寄ったりでちまちました存在である

 戦前戦中の挙国一致体制は強力な国家パワーを生み出した。しかしながら、“純一色”の社会の下での、理性よりも感情の方が勝る国民性は国家全体を勝ち目のない戦争に暴走させてしまった。そこで、多様性を認める社会に転換させた。ところが、多様な利害集団が相殺しあって国全体が停滞することになってしまった。

 上記の日本の国家体制についての一般的見解をどのように捉えるべきでしょうか? 「悲劇を招く集団暴走よりは平和な停滞の方がましである」と諦めなければならないのでしょうか? 「否」です。なぜなら、

 概念拡大と論理型の会話により議論をする ⇒ 議論の結果に基づいてジグソーパズル思考をする──、という手順の知的作業を行うことができれば、多様性は独創的な構想の源に鮮やかに転換できるからです。

 お互いの意見の真ん中を取る。お互いに妥協しあう──、といったような交渉に終始するから相殺現象が発生することになってしまうことを忘れてはならないのです。

 このように考えると、政治家に構想力・独創力が決定的に不足していることに問題があると言わなければならないでしょう。(詳細 ⇒ 『「日本復活道遠し!」となっているのはなぜなのか?』、期待値の例 ⇒ 『雇用拡大を生み出す構造改革の方法』)

(理由2) 大多数の日本人のDNAになっている“なし崩し的な意思決定”が改革を妨げる元凶である

 それでは目の覚めるような鮮やかな創造的統合戦略だけ提起すれば万事OKとなるのでしょうか? 「否」です。なぜなら、日本人はなんとなくずるずると行動を起こしてから後で正式に決定することに慣れ親しんだ厄介な国民性を持っているからです。

 (詳しくは ⇒ 『複雑な事情が災いして円滑な第一歩が踏み出せない』&『米国は“外生変数重視主義”でOK。日本に必要なのは“内生変数重視主義”』)

 このような国民性が実は必要不可欠な社会改革を困難にしているのです。なぜなら、代理制度では多様な意見を国政に反映できない。さりとて、斬新な改革路線に国民を糾合することが困難であるので、直接制度も採用できない。このことが根本的原因となって、

 日本は民主国家でありながら真の政権交替ができない先進国唯一の国になってしまっている ⇒ ちまちました集団になってしまっている永田町の独り歩きを許容せざるを得ない (政治と国民が乖離している) ──、という図式ができあがってしまっているからです。

 中央政界に対して「政治家は私達とはまったく関係のない存在になっている」という巷の声が渦巻き、民主政治を無意味にしかねない低投票率という現象を生み出してしまっているのです。

(理由3) 日本人のDNAになっている“なし崩し的な意思決定”には根深いものがある

 民主主義の下で改革を円滑に進めるための条件がひとつあります。今の生活よりも改革後の生活の方がはるかに良くなることが確信できる。これがそうです。この条件を充足しにくいのが日本の実態です。理由は大別して二つあります。

(理由1) 長年の自民党一党支配体制が多くの国民をぬるま湯に浸けて骨抜き状態にしてしまった

 フォローの風が吹く環境の下で人材並びに資金等を輸出産業に有利に誘導する。その代わり、その他の産業を手厚く保護する。こういう政策を自民党は長年に亘って推進してきました。そして、環境が様変わりして国家財政の破綻を招きました。

 上記の経済政策は、本人が気づかないような形で給料が水増しされてきたようなものです。いいかえれば、国民の多くは分不相応の良い生活を送ることができるようなったのです。

 これでは必要不可欠になった改革は円滑に進むわけはありません。なぜなら、「改革によって生活が良くなる」と思える人が大多数を占めてはじめて改革推進力が生まれるからです。

(理由2) 長年に亘る安楽な生活・仕事が多くの日本人から先見力を奪い去ってしまった

 上記したことに対して「日本人はゆで蛙現象への道を選択するほど愚かではない」という反論が生まれることでしょう。しかしながら、この反論は間違っています。なぜなら、多くの日本人は「横並び志向の生活・仕事を長年にしてきた ⇒ 思考停止状態が長年に亘って継続してきた ⇒ 先を見通す脳力は養われようがなかった」という図式の下に置かれているからです。

 新しい提案を上司に対して行うと、「他所ではどうなっていますか?」という言葉が直ぐに返ってくる時代が長く続いた。アメリカの9・11事件の時、外国の報道陣が独自の取材を展開する中にあって、スポットライトを当てられたビルの周囲をぐるりと囲んだのは日本人だけであった。── この二つの事実は上記図式の正当性を証明する決定打になるのではないでしょうか。


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